Mastodonが再びブームを迎えています。実は私も一時期Mastodonから離れていましたが、Twitter APIの仕様変更などを期に、Mastodonの自分専用インスタンスを建てて移住しました。
Mastodonの強みの1つとして「自由」であることが挙げられますが、これはどういうことなのでしょうか。今日は、Mastodonの自由について考えてみたいと思います。
Mastodon は本当に「自由」なのか
某巨大インスタンスでは、あるユーザーがサイレンス(ローカルや連合タイムラインに表示されなくなる。ただし、フォロワーのホームには表示され続ける)されたことについて、賛否両論あったようです。
Twitterから来た人には、Twitter Streaming APIの廃止やその他の仕様変更を受けて移住してきた人もいますが、凍結されない自由な発言ができる場所を求め移住してきた人もいます。彼らにとっては、Mastodonでも「凍結」のような処置が行われたという事実に衝撃を受けたり失望したりするのは、ある種自然なことのように思われます。
その巨大インスタンスは、個人によって運営されています。一個人がある人の発言に対してサイレンスという処分をしたという構図は、Twitter運営がTwitterアカウントを凍結するという構図よりも独裁的に映るかもしれません。また、その処分に一貫性がない、遡及的であると批判する人もいます。これについては、私はコメントするべき立場にないと思うので、この真否は置いておきます。
しかし、ここでTwitterとMastodonをその括り方で比較するなら、そこには決定的な違いがあります。それは、Mastodonには多くのインスタンスがあり、とあるインスタンス管理人から処罰を受けても他のインスタンスに移住すればこれまでと殆ど変わらずに人間関係を維持できるという点です。Mastodonにおいて排除(=凍結)されるということは、Mastodon全体から排除されたわけではなく特定のインスタンスから排除されたに過ぎないわけです。この考え方は分散SNSにおける「自由」を論じる上で重要です。
何が「自由」を担保するのか
Mastodonの「自由」を担保するのは、分散(あるいはdecentralization)だと考えます。Mastodonの「自由」は、ユーザーがどのインスタンスでどのような発言をしても排除されないという意味ではありません。あるインスタンスで排除されても、他のインスタンスに移れる。そして、自分のインスタンスを持つことすら可能であるという意味なのです。
このように考える人もいるかも知れません。排除されたら他の場所で発言すればいいという考えは、Twitterで凍結されたら他のSNS、最終的には自分のブログを建てればいいということと同じではないか。
しかし、Mastodonのdecentralizationという考え方が、この2つの考えに決定的な違いを生み出します。後者(Twitterの例)は、Twitterという中央がありそこから排除されたら、Twitter上の人々とコミュニケーションを取ることはできません。排除される前のように交流するには全員に移住先を伝えてアカウントを作ってもらったりする必要があります。一方、Mastodonにおいては、中央が存在しない(=decentralized)ので、ある特定のインスタンスから排除されても別のインスタンスから同じ人をフォローしなおせば、排除される前のように交流できます。ほとんどのインスタンスから排除されてしまったのなら、最終的には自分のインスタンスを建ててしまえば、プロバイダ以外から制限を受けることはありません。
Mastodonの「自由」を担保するもの
以上のことから、Mastodonの自由を担保するのは次の要素だと考えます。
- 非中央集権性
- インスタンスを超えた交流
- インスタンス移動の容易さ